2006年 12月 29日
「絶対に疑い得ないもの」及び「人間の活動の基本単位」に関する考察(6) |
(6)
それでは、これらの科学を「勝つ意思」を用いて結びつける方法は、果たしてあるのだろうか。そして、もしあるとするならば、それを用いてどのようにこれらを結びつければよいのか。
さて、ここで留意すべき点は、「勝つ意思」が「人間の活動」において「絶対に疑い得ないもの」であり、その「特性」を活用して人文科学と社会科学における「基本単位」に据えることができる、ということである。
そして自然科学において、もしも「勝つ意思」と同じような地位を占めることになる「基本単位的概念」があるならば、それと「勝つ意思」を結びつけることによって、これらの「科学」を統合できる可能性が出てくるのではないだろうか。
では、「自然科学」において「勝つ意思」のような地位を占める、いわゆる「自然科学の基本単位」は、果たして何であるのか。
それはおそらく、「エネルギー」であると考えられる。なぜならばこの概念は、自然における運動や、生物における生命活動の「基本単位」として、自然科学において不動の地位を占めているのであって、自然科学の「基本単位」としての地位を同様に占めている「物質」よりも、応用範囲が広い概念だからである。(また、人間のありとあらゆる「活動」にも「エネルギー」は必要とされるのであり、精神活動においてもそれは変わらない。)さらに、アインシュタインの一般相対性理論から導き出される帰結として、「エネルギー」と「物質」が変換可能なものであることもわかっているので、「エネルギー」と結びつけられるものがあるとするならば、それは同時に「物質」とも結びつけられることにもなる。
よって、「勝つ意思」を「エネルギー」と結びつけることができれば、「勝つ意思」は同時に「物質」とも結び付けられることになる。そしてこれにより、自然科学と人文・社会科学とを結びつけ、それらが共通の基盤の上に成り立っていることを確固とした形で表すこともできるはずである。
それでは、「勝つ意思」と「エネルギー」がどのように結びついていると考えればよいのだろうか。
「エネルギー」は、「仕事を成しうる能力」と定義される。ここで、「仕事を成しうる」とはどういうことなのかを考えてみると、これは「仕事の難しさ」や「仕事を成すことを妨げる要素」、言い換えれば「抵抗」に「勝つこと」であるといえる。すなわち、「エネルギー」は、「対象の抵抗に勝ち、それによって『勝つ意思』を充足させることができる能力」と言えるのではないだろうか。
さらに、「エネルギー」は常に目的に向かうものとして成立しており、「勝つ意思」も常に目的を志向することによって成立している。また、エネルギーは変数としての「量」によって対象に影響を与える度合いが異なり、「勝つ意思」も、その「量」の多寡によって対象に変化を与える度合いが異なるのであるから、やはり「量」によって表せる概念であるといえる。よって「エネルギー」と「勝つ意思」は、「両方とも目的を志向し、量の多寡によって対象に変化を与える度合いが異なるという点で共通している」と言うことができる。
ここで「『勝つ意思』は『エネルギー』の一形態であり、『エネルギー』の本質は『勝つ意思』にある」と考えれば、「勝つ意思」と「エネルギー」は定義上結び付けられる。
そしてこれにより、「勝つ意思」によって成り立っている「精神」と、「エネルギー」の一形態である「物質」とを結びつけることも可能になる。これはすなわち、「精神」と「物質」とを同一の「基本単位」で表すことになるのであるから、デカルト以来の「難題」であった「心身問題」も、この考え方によって解決することができるはずである。(7に続く)
それでは、これらの科学を「勝つ意思」を用いて結びつける方法は、果たしてあるのだろうか。そして、もしあるとするならば、それを用いてどのようにこれらを結びつければよいのか。
さて、ここで留意すべき点は、「勝つ意思」が「人間の活動」において「絶対に疑い得ないもの」であり、その「特性」を活用して人文科学と社会科学における「基本単位」に据えることができる、ということである。
そして自然科学において、もしも「勝つ意思」と同じような地位を占めることになる「基本単位的概念」があるならば、それと「勝つ意思」を結びつけることによって、これらの「科学」を統合できる可能性が出てくるのではないだろうか。
では、「自然科学」において「勝つ意思」のような地位を占める、いわゆる「自然科学の基本単位」は、果たして何であるのか。
それはおそらく、「エネルギー」であると考えられる。なぜならばこの概念は、自然における運動や、生物における生命活動の「基本単位」として、自然科学において不動の地位を占めているのであって、自然科学の「基本単位」としての地位を同様に占めている「物質」よりも、応用範囲が広い概念だからである。(また、人間のありとあらゆる「活動」にも「エネルギー」は必要とされるのであり、精神活動においてもそれは変わらない。)さらに、アインシュタインの一般相対性理論から導き出される帰結として、「エネルギー」と「物質」が変換可能なものであることもわかっているので、「エネルギー」と結びつけられるものがあるとするならば、それは同時に「物質」とも結びつけられることにもなる。
よって、「勝つ意思」を「エネルギー」と結びつけることができれば、「勝つ意思」は同時に「物質」とも結び付けられることになる。そしてこれにより、自然科学と人文・社会科学とを結びつけ、それらが共通の基盤の上に成り立っていることを確固とした形で表すこともできるはずである。
それでは、「勝つ意思」と「エネルギー」がどのように結びついていると考えればよいのだろうか。
「エネルギー」は、「仕事を成しうる能力」と定義される。ここで、「仕事を成しうる」とはどういうことなのかを考えてみると、これは「仕事の難しさ」や「仕事を成すことを妨げる要素」、言い換えれば「抵抗」に「勝つこと」であるといえる。すなわち、「エネルギー」は、「対象の抵抗に勝ち、それによって『勝つ意思』を充足させることができる能力」と言えるのではないだろうか。
さらに、「エネルギー」は常に目的に向かうものとして成立しており、「勝つ意思」も常に目的を志向することによって成立している。また、エネルギーは変数としての「量」によって対象に影響を与える度合いが異なり、「勝つ意思」も、その「量」の多寡によって対象に変化を与える度合いが異なるのであるから、やはり「量」によって表せる概念であるといえる。よって「エネルギー」と「勝つ意思」は、「両方とも目的を志向し、量の多寡によって対象に変化を与える度合いが異なるという点で共通している」と言うことができる。
ここで「『勝つ意思』は『エネルギー』の一形態であり、『エネルギー』の本質は『勝つ意思』にある」と考えれば、「勝つ意思」と「エネルギー」は定義上結び付けられる。
そしてこれにより、「勝つ意思」によって成り立っている「精神」と、「エネルギー」の一形態である「物質」とを結びつけることも可能になる。これはすなわち、「精神」と「物質」とを同一の「基本単位」で表すことになるのであるから、デカルト以来の「難題」であった「心身問題」も、この考え方によって解決することができるはずである。(7に続く)
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by e-wwill
| 2006-12-29 23:31
| 原論6(エネルギーの「性格」)